高校野球夢追い人

野球が好きで野球監督がしたくて教員になりました。自分の人生を豊かにしてくれる野球と美術について「メモ書」のようなブログです。和歌山県の野球をやっている方々をリスペクトしています。2019年6月7日 インスタ「kazenofu」(風の譜)も見てね。

    野球が好きで野球監督をしたくて教員になりました。自分の人生を豊かにしてくれる野球と美術について「メモ書」のようなブログです。
    和歌山県の野球をやっている方々をリスペクトしています。
    2019年6月7日にスタートし4年目です。
    インスタ「kazenofu」(風の譜)も見てね。

    カテゴリ: 悠々美術館

    「この紋所が目に入らぬのか⁉️」
    とは時代劇水戸黄門の決め台詞だが、正倉院で御朱印をいただきたくてこの冊子を出したところ、宮内庁の方々が私が徳川家の縁者だと思ったのか、すごく丁重な対応をしてくれました。
    私は、和歌山市の普通の中学教員だと身分を明かしましたが、丁重な対応は変わりませんでした。
    gosyuintyo (2)
    葵の御紋の力って凄いですね。

    2022悠々美術館3大ニュース

     

    3位 1021日 教員にカムバック

    教育委員会から4月と7月に「もう一度、教員をしてもらえませんか?」とオファーをいただきましたが、辞退しました。

    ところが、7月に高校野球和歌山大会を観戦していると、試合が終わるごとに教え子たちがあいさつに来てくれ、話がはずんだが「先生、今、どこの学校にいるのですか?」「今年3月で退職しました」

    教え子「・・・・・」(絶句)

    教え子たちの絶句で「教師を辞めたら悪いのかな?」と考え直しました。

    文部科学省も、教員免許更新制度が悪法であると(13年かかったけど)自認して、この制度は7月に廃止されました。

    驚いたことに、3月で失効した私の教員免許が、更新講習を受けていないにもかかわらず復活しました。

    教員免許更新制度に断固反対して退職しましたが、カムバックの条件が整いました。

    10月に、教育委員会から3度目のオファーをいただき、カムバックしました。

    2022悠々美術館3大ニュース

     

    2位 419日 開運なんでも鑑定団に2度目の出演

    悠々美術館が全国ネットで紹介されました。

    最初の出演から5年ぶりでした。途中、何度も出演依頼がありましたが、コロナのため東京に非常事態宣言が出されるなど4回延期され、ようやく出演できました。

     


    2022悠々美術館3大ニュース

     

    1位 331日 この日をもって教職員を退職 フリーに転身

    10年前、教員免許更新講習を受けて驚いた。「更新講習って、こんなレベルなの?」

    高い講習料を払い、20時間を超える講習を受け、その内容が薄すぎる。

    残念すぎるので、10年後の講習は拒否して退職すると決めていた。

     


    カムバック

     

    教育委員会から連絡があり、もう一度教壇に立ってほしいと言われました。

    教員免許が失効しているのですが、文部科学省が再発行するようです。悪い制度を見直すということでしょうか。

     

    なので、再び教壇に立つことにしました。

    わたしは、以前からそうですが、私の授業を受けた生徒たちが感動するような授業をすることを第一にしています。

    少しでも、和歌山の生徒たちに貢献することができたらと願っています。

    教員を退職した理由

     

    2022年に入ってテレビ局から出演依頼があったほか、書籍の出版依頼もあり、美術コレクターとして本腰を入れたいという自身の願望もあり、心中慌ただしかった。

     

    教員を続けたい気持ちもあったが、もともと野球監督になりたくて教員になり、30年以上休みなく野球部の指導を続けてきたが、授業と野球の両立は体力的にきつくなっていた。

     

    けど、教員を辞める最大のきっかけは10年前に受けた教員免許更新制度だった。

    費用がけっこうかかるうえに時間的な拘束が長時間に及ぶこと、さらに講習の内容が薄く、わざわざ大学に出向いて講習を受けなくても、現場で経験し学んで知っていることばかりだった。

    「自分が講師なら、もっと良い講義ができるのに」どうして、文部科学省はこのような中身の薄い講習を私たち教員に強要するのだろうかと残念な気持ちで心がふさがれた。

    そのため有効期限の10年を経過して、次の講習は受けないと心に決めていた。講習を受けないと教員免許は失効して教師を辞めることになる。それが、2022年の3月末だった。

     

    4月以降、わたくし美術館である「悠々美術館」をほぼ毎日開館し、多くの美術ファンが訪れてくれました。自分が好きなことに熱中できるのは幸せなことです。私の場合、野球監督を35年させていただいて、そのあと、優れた美術品に毎日触れていられるのは無上の喜びです。

     

    驚いたことに、現場の教員を苦しめた教員免許更新制度が今年の71日に廃止されたそうです。1回受けて「無意味な制度」であることを身をもって知り、二度と受けない決意で退職したのですが、文部科学省もこの制度を13年間やって、ようやく悪法であることに気づいたのでしょう。

    もうちょっと早く気づいていてくれたら、教師を辞めなかったかもしれないのに・・・

    入れ違いになってしまいました。

    悠々美術館のコレクションが和歌山県立近代美術館「稗田一穂展」で展示されています

     

    7月に、和歌山県立近代美術館の学芸員の方が悠々美術館に来訪され、コレクションである故・稗田一穂画伯の「晩夏」120号を910日から116日まで開催される稗田一穂展で展示していただけることになりました。

    そのあと、田辺市美術館でも展覧会が開かれます。

     

    「晩夏」は1998年、第25回創画展に出展され東京都美術館をスタートに、京都市美術館、愛知県美術館、呉市美術館、博多大丸、弘前市立博物館と全国各地を巡回しました。

    さらに2002年、富山県立近代美術館の稗田一穂展に出展されたあと、美術商を介して

    和歌山の悠々美術館にコレクションされました。

     

    稗田一穂画伯は1920年、和歌山県田辺市で生まれました。1943年、東京美術学校日本画科を卒業。

    1948年、創造美術が結成され、第1回展より出品。

    1966年から1968年まで法隆寺金堂壁画再現に従事。

    1972年、東京芸術大学美術学部日本画科教授。

    1974年、創画会を結成。

    1985年、和歌山県文化賞および田辺市文化賞受賞。

    1988年、東京芸術大学を退官、同大学名誉教授となる。

    1991年、日本藝術院賞・恩賜賞受賞。

    1994年から2007年まで女子美術大学大学院教授。

    2001年、文化功労者。

    2021年、100歳で逝去。

     

    和歌山県出身の日本画家では、川端龍子、下村観山、清水達三らとともに高い評価を得ている。

    付き合い

    私は、いったん親しくなると、その付き合いが長く続く。

    死ぬまで付き合うつもりでいるが、近年、長きにわたって付き合ってきた方々の中に亡くなってしまった人がいて、悲しい気持ちに沈んでいる。

     

    5年前に、紀之国スポーツの藤本隆生社長が亡くなられました。箕島高校のトップバッターとして甲子園に出場し、智辯和歌山の高嶋監督との付き合いを取り持っていただき、高嶋監督に対して批判がでたときには、ともに、「こんなことで監督をやめないように絶対に支えよう」と誓いを立てたことは、忘れることができません。

     

    4年前に、小久保裕紀選手のお母さんが亡くなられました。西和中時代、智辯和歌山に進学できずに元気をなくしている小久保選手を見て、彼は硬式のクラブチームでしたが、星林の谷口健次監督に「素晴らしい選手だけど、このままだと桐蔭高校に進学するかも。ぜひ、誘うべきです」と進言し、小久保選手は星林高に進学。その後、青山学院大でオリンピック日本代表、ソフトバンクにドラフト2位指名され、プロ野球で活躍し、近年、侍ジャパンの監督も務めた。些細な助力であったにもかかわらず、ずっと交流が続き、薬剤師をされていたため、私の母が入院した和歌山市の病院でもお世話になりましたが、若くして他界されました。

     

    小久保選手の縁で、当時、星林の野球部長だった竹中雅彦先生とも交流が生まれ、竹中先生が日本高野連の事務局長を務めるようになっても交流は続きました。会うごとに竹中先生のほうから歩み寄って声をかけて下さる気さくな方で、智辯和歌山を応援に来た甲子園球場で私を見つけ、走り寄って握手してくださったのでびっくりしましたが、3年前、64歳の若さで突然亡くなられました。知らせを受け呆然としました。

     

    わたしは無名の公務員でしたが、長く付き合ってくださる人たちの中には、超有名人が多くいます。有名になった後でも、変わらず付き合って下さることに頭が下がる思いです。今後も、付き合いが続く人たちの中から、超有名人が誕生することを願っています。

    浮世

     

    平安時代、貴族の世の中になって、藤原氏をはじめ貴族たちは、人を傷つけたり、死にかかわったりすることを嫌ったため、奈良時代にあった兵役の義務や警察の仕事が形骸化し、世の中は犯罪が多発した。

      そのため、生きている間は「憂き世(うきよ)」だが「せめてあの世では極楽で往生したい」と浄土信仰が起こった。

    藤原道長の子・頼通が宇治に平等院鳳凰堂を造ったのも、生きている間から、庶民が憧れてやまない極楽浄土をみせてやりたいというコンセプトから建造されたものだ。

     

     しかし、「憂き世」を打ち破るために、有力農民が武士となり、やがて源氏と平氏の二派に分かれて覇権を争った。

     ところが、鎌倉、室町、戦国時代と、しばしば戦乱は起こり、ほかにも天災や飢饉など、「憂き世」から抜け出すことはできなかった。

     

    100年以上続いた戦国時代が終わり、江戸時代になって、1615年の大坂の陣、1637年の島原の乱はあったが、それ以外、265年の間、戦乱は全くと言っていいほど起こらなくなった。

    人類の歴史で、200年以上戦乱がない国家というのは、江戸時代の日本だけです。

     

    江戸時代に人々は、平和とともに暮らしが豊かになるにつれて、ようやく、今を楽しむことを知るようになり、「憂き世」を「浮世」と書き換えるようになった。

     

    ただ、この「浮き」は「定めのない、空しい」「浮わついた」という意味に解釈するようだ。

     

    けれども、わたしは「うきうきする」の「浮き」だと思っている。

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